岡田有希子全アナログ盤 +自殺の真相


2012.11.21
ザ・プレミアムベスト 岡田有希子

1. ファースト・デイト
2. そよ風はペパーミント
3. リトル プリンセス
4. 恋のダブルス
5. -Dreaming Girl-恋、はじめまして
6. 気まぐれTeenage Love
7. 二人だけのセレモニー
8. PRIVATE RED
9. Summer Beach
10. 星と夜と恋人たち
11. 哀しい予感
12. 恋人たちのカレンダー
13. Love Fair
14. 二人のブルー・トレイン
15. くちびるNetwork
16. 恋のエチュード
17. 花のイマージュ
18. Believe In You (2003 Strings Version)




1984.04.21 ファースト・デイト
1984.07.18 リトル プリンセス


1984.09.21 Dreaming Girl- 恋、はじめまして
1985.01.16 二人だけのセレモニー


1985.04.17 Summer Beach
1985.07.17 哀しい予感


1985.10.05 Love Fair
1986.01.29 くちびるNetwork


1986.05.14 花のイマージュ



「花のイマージュ」 は1986.4.6自殺後にリリースした最期のシングル。
























昭和61年(1986年)4月8日午前9時過ぎ、東京都港区南青山6丁目にある南青山ロータリーマンション(左写真)6階の住人がガスの匂いに気付いた。管理人はガス漏れが何処の部屋なのか一軒づつ部屋を尋ねた。

管理人は402号室のチャイムを鳴らした。応答はなかった。扉に顔を寄せると隙間からガスの匂いがした。管理人が合い鍵でドアを開けると強烈なガスの匂いがただよってきた。

しかしドアにはチェーンロックがかけられていた。この部屋の居住者の名は佐藤佳代こと岡田有希子、借り主はサンミュージック。南青山ロータリーマンションは6階建てのごく普通のマンションであり出入りも自由、彼女がここに住んでいることは管理人以外誰も知らなかった。



ドアの隙間から呼びかけた。 「佐藤さん、だいじょうぶですか?」
応答は無かった。男は110番通報をした。気が動転していた彼は消防署に連絡することを忘れていた。しばらくしてガス漏れが生じていることから東京ガスへ連絡を入れた。

右の自殺直後の写真を撮ったフライデーカメラマンは、その後、謎の事故死をしたよう。


10時9分、警視庁から東京都消防局赤坂消防署に救急車の出動要請がされた。10時16分、消防署の隊員が現場に到着した。警官は一足早く現場に着いていたもののほぼ同時だった。消防隊員の手でチェーンロックが切断され、署員が中へと入っだ。室内は強いガス臭が漂っていた。そして一人の少女が押し入れの下段にて涙を流し泣いていた。左手には長さ5cmもの裂傷が2筋あり、手首を切って自殺を図ったものと思われた。血は殆ど止まっていたものの周囲は血糊がべっとりとはりついていた。血塗れのカッターナイフが傍らに落ちていた。少女の意識はもうろうとしていた。

まだ、彼女が岡田有希子であることは周囲には知られていなかった。彼女は直ぐさま救急車に載せられ近くの救急指定病院、清潤会北青山病院へと搬送された。搬送時付添人はいなかった。室内にガスが充満していたこと、同居人がいないことから管理人と警官がその場に残された。10時20分、彼女の搬送先を確かめた後に、管理人はサンミュージックに連絡を入れた。


(飛び降りしたビル(右写真)
岡田有希子のマネージャー溝口伸郎はこの日、娘の小学校入学式の為休みをとっていた。管理人からの電話はサンミュージック総務部福田時雄専務、付き人の山崎結美が受け取った。

二人は直ぐさま病院へ急いだ。そして溝口の自動車電話へ急を告げる電話が知らされた。当時はまだ携帯電話は高価なものであり自動車電話と呼ばれていた。

急を告げる電話に溝口は式場をあとにし、タクシーに乗り込んだ。10時33分、救急車は清潤会北青山病院に到着した。診察した医師は左手首の裂傷が意外に深いことに気が付いた。

通常のリストカットの場合、そうそう深く切れるものではない。直ぐさま消毒が行われ縫合手術が行われた。4針糸が通された。そして落ち着かせる為に精神安定剤が投与された。


 ← 岡田有希子のマネージャーだった溝口伸郎

裂傷の深さに神経が切られていることが危惧された。

医師は岡田有希子に手を動かしてみるようにと声をかけた。握って、開いて、指を折り曲げて、彼女の手は正常に動いた。

次に医師は意識の混濁の程度について簡単な問診をした。生年月日、住所、名前。岡田有希子は落ち着き素直に答えた。

後遺症らしき所見は見いだせなかった。医師は即時退院が可能なものと判断した。


11時15分、サンミュージックの福田専務、山崎結美がタクシーで清潤会北青山病院に到着した。すぐさま岡田有希子と対面したが、彼女は号泣するばかりでとりつくまもなかった。ガス自殺をはかったと聞かされていたが手首の傷については知らされていなかった。果たしてこのまま帰ってよいものだろうか。逡巡する福田専務に医師は入院の必要は無いといった。相沢社長に今後の処置を尋ねようとしたが、社長は近所の歯医者へ行っており留守だった。

岡田有希子は靴を履かぬまま病院へ搬送された為、病院の簡素なスリッパを借りた。3人は人目をはばかるようにタクシーを拾い、青山通りから外苑西通りを北へ、サンミュージック本社へ向かった。運転手がいることから3人は終始無言だった。彼女と入れ替わりにマネージャーの溝口の乗ったタクシーが北青山病院に到着した。すでに立ち去ったことを知った溝口は直ぐにタクシーを拾い病院をあとにした。

11時50分、警視庁記者クラブにて岡田有希子自殺未遂との第一報が報じられた。直ぐさま取材陣は四谷4丁目へと急いだ。そんな状況になっているのも知らず、3人を載せたタクシーは12時頃、四谷のサンミュージック前へ辿り着いた。まだ報道陣は来ていなかった。

社内にて、岡田有希子はトイレに行きたいといった。福田専務は山崎にトイレの前でけして目を離さぬよう厳命して手洗いにいかせた。すぐに二人は戻ってきた。そして3人は6階の社長室へ入った。岡田有希子はスリッパのままだった。社長はまだ帰っておらず社長秘書が一人だけ部屋にいた。


福田専務は自殺のことについては触れなかった。食事でもとろうとしたが、岡田は拒んだ。コーヒーも厭だという。では冷たいものでも・・彼女はかすかに頷いた。無言の岡田に山崎は、彼女の好きなストロベリージュースをとりよせることにした。社長室秘書が近所の喫茶店に出前の注文をしに外へ出た。

その時、福田専務宛に溝口マネージャーから自動車電話が入った。社長室へ転送してもらおうと思ったが、岡田の前で彼女の状況を説明することははばかれた為、福田専務は社長室を出て隣室の受話器をとった。溝口は外苑西通りをタクシーで北上し、社のほんの少し手前まで来ていた。岡田が心配になってかけた電話が結果的に仇をなった。社長室には岡田と山崎の二人きりとなった。
山崎がティッシュを探すほんの一瞬の隙に、岡田有希子は社長室からいなくなった。山崎はパニックに陥り、隣室の福田専務の元へ転がり込みいった。

「有希子がいません!」

電話は切られ、二人は岡田有希子の姿を探した。

丁度その時、溝口の乗るタクシーは外苑西通りにいた。サンミュージックのある四谷4丁目交差点で信号待ちのため停まっていた。溝口は電話を切った。

12時6分、溝口の視野に不意に黒い物体が落ちていくのが見えた。直感で岡田有希子が落ちたのではないかと思った。すぐに信号は青にかわり、タクシーはサンミュージック前へ停車した。溝口がかけよると、うつぶせの為に顔は見えなかったが、彼女がいつも付けていた腕時計が目に入った。

「有希子!有希子!」

溝口はマネージャーとして、彼女の遺体を公衆の目前に晒すことだけは避けたかった。すぐに会社へと駆け上がり、仮眠用の毛布を探した。

福田と山崎の二人は6階から屋上へ向かう階段に脱ぎ捨てられたスリッパを見て、彼女が屋上へ駆け登ったものと思った。福田はすぐに屋上へ向かったが、屋上は大きな広告看板に遮られて下を見ることが出来ない。飛び降りることは不可能だった。山崎は階段の踊り場にある窓から、騒がしい外の声を聞いて下を見た。そこには岡田有希子が血を流して倒れていた。昼時、いつもは多くの人が並んでいる一階の弁当屋から行列が消え、血がゆっくりとアスファルトに流れていった。

山崎は仰天し、屋上から降りてくる福田専務の前にへなへなとしゃがみ込んだ。溝口は毛布を手に階段を急いでくだった。入れ違いに入り口の亡骸を見たであろうストロベリージュースの出前のウェイトレスが怯えながら登ってきた。

溝口は泣きながら彼女の亡骸へ毛布をかけた。ガス自殺未遂の報をうけて続々と報道陣が集り始めたが、まさか毛布の中が岡田有希子本人だと気付く者は少なかった。

12時40分、岡田有希子の遺体は警視庁四谷署に運ばれた。夜7時半、両親がサンミュージックに到着した。報道陣にもみくちゃにされながら、四谷署へ移動し遺体と対面した。20時41分、岡田有希子の亡骸は四谷警察署を出て四谷霊園へ移動し仮通夜が営まれた。22時20分、恋の相手とされた峰岸徹がTBS別館にて記者会見をひらかれた。峰岸は「僕の人生にとってもっとも厄介なことだ。」と語った。

14年後、平成12年7月19日、元マネージャーの溝口伸郎(この時は、酒井法子を担当していた)は岡田有希子が最後に立ち寄った5階と6階の間にあるトイレ内で縊死した。



ユッコの学生時代の成績はトップ。ほとんどオール5だ。

岡田有希子の自殺の原因は
峰岸徹はダミーで、
実際は神田正輝の子を妊娠したのが定説とされている。。。らしい。




1986年(昭和61年)4月8日(火)に起こったあの衝撃的な事件のダイジェスト




1986年4月4日(金)

南青山で一人暮らしをはじめる。テレビ朝日の「歌謡ドッキリ大放送」に出演。

1986年4月5日(土)

渋谷公会堂で“ハートジャック・コンサート”を行う。
その中で、ファンに“失恋”という詩を披露する。

1986年4月6日(日)

地元・名古屋市民会館でコンサート。これがラストコンサートに。19時に実家に戻り20:53の列車で母と別れる。


1986年4月7日(月)

PM7:00
 渋谷パンテオンで開かれた「ロッキー4・炎の友情」の試写会に出掛ける。女性と一緒。マスコミの取材を受け、笑顔で「シルベスター・スタローンは最高ですね」。

PM8:30
終映。

PM9:00~10:00
 南青山の自宅に帰宅して、ガス自殺の予行演習のものをしたという。ガス臭い匂いがマンション中にたちこめ、ちょっとした騒ぎに。しかし、すぐにおさまった模様。
 
PM10:00
 その頃、溝口伸郎マネージャーから電話。テレビドラマの収録開
始が1日延びたことを知らされる。「あらー、残念ねぇー」と言っていたという。 声も非常に明るかった。

PM11:00
さらに彼女の友人がTEL。

PM11:30
タレントの石野陽子がTEL。4回ほど鳴らしたが出なかったので切る。

その期間の間に外出(?)、彼女はタクシーで成城に向かいそこに住む男性(峰岸徹)の自宅前で一晩、一人寂しく過ごしていた模様(真偽は定かでない)。

1986年4月8日

AM5:00
タクシーを拾い、東京駅の八重洲口に向かう。彼女は泣いていたそうだ。

八重洲口の手前で車を降りた彼女はそれから、一人住まいのマンションに帰った(ほんまかいな)。


AM9:00
 マンションの住人が管理委員の部屋(3階)を訪れ「4階がガス臭い」と報告する。
 AM10:09
 警視庁通信指令センター(110番)から赤坂消防署に救急車の出動要請が入る。

AM10:16
 救急隊がマンションに到着。鋭利なナイフで左手を切っており、周辺ではかなりのガスの匂いがした。押し入れの下段にて涙を流し泣いていた。

AM10:20
 ロータリーマンション管理委員からサンミュージック総務部に「岡田さんが
自殺を図り救急車で病院に運ばれた」と電話を入れる。

AM10:33
 東京・北青山の北青山病院に毛布にくるまれ運ばれる。直ちに縫合手術で左手首を4針縫い、傷口の手当て、投薬。同病院側は正常な受け答えができ指も動くので「入院の必要なし」と判断。彼女は号泣していたという。

AM11:15
 サンミュージック福田時雄専務。山崎結美両マネージャーが北青山病院に到着。

AM11:50
 「岡田有希子自殺未遂」とマスコミ関係者に伝わり、大混乱となる。

PM12:00
 サンミュージックに運ばれる。「トイレに行きたい」と言い、見張りをつけ用を済ます。その後、福田専務らと社長室に入り「コーヒーでも飲むか?」と言われるが拒否、「じゃあ、冷たいもんでも
飲んで気を落ち着けなさい」と言われ、わずかにうなずく。

PM12:15
 サンミュージック相沢社長から福田専務に電話が入り、福田専務が「本人の前では」と席を外したスキに、山崎マネージャーに 「ちょっとティッシュを・・・」 と言って、屋上にかけ上り、飛び降り自殺



遺書のこと

1983年に番組『スター誕生!』の第46回決戦大会チャンピオンになったアイドル歌手。
1986年4月8日、ビルの屋上から飛び降り全身を強く打って即死した。
今では考えられないが死体姿をフライデーやスポーツ新聞がデカデカと掲載した。

その時に岡田有希子の写真を撮りフライデーに売ったカメラマンは事故で亡くなった。自殺の直後、警察に保管されていた岡田有希子の遺書が両親に手渡され、 遺書の内容には峰岸徹との交際がただの憧れをはるかに超えた親密であったことが、ハッキリと読み取れたという。この遺書から自殺の動機は峰岸徹との関係が有力である。

芸能レポーターの梨元勝や警察関係者の証言でも、遺書には具体的に『峰岸さんにふられた。愛の生活に疲れました。』『峰岸さんは最近会ってくれない。好きか嫌いかはっきりしない。思わせぶりで冷たい人。』『もう一度お会いしたかった・・・勝手なことをしてごめんなさい。』『峰岸さん、結婚してくれるって言ったじゃない。うそつき』と書かれていたそうだ。



遺書は現在もサンミュージック本社内の金庫の中に保管されている。事件後、若者の後追い自殺が相次ぎ、衆議院文教委員会で取り上げられ社会問題になる。


1986年4月4日に収録された最後の映像








酒井法子と


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溝口伸郎自殺の報道 1989年5月

















by cress30 | 2004-12-22 09:05 | ●岡田有紀子

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