2004年 03月 30日
チューリップ シングルレビュー
財津和夫、吉田彰を含む4人組だった頃にレコーディング、プレ・デビュー・シングル。当時のTULIPはカレッジフォークグループ。この曲は、当時毎晩のように安部俊幸の家に泊まりに行っていた財津和夫が、ギターケース片手にタクシーで安部の家に向かう際に運転手から 「自分も昔は音楽をやっていたんだけどねぇ」 と話しかけられ、「いい話だ、と思って」 作られた。
1972.06.05 魔法の黄色い靴
公式デビュー・シングル。財津和夫がこの曲のデモテープを持って単身上京し、「私の小さな人生」のレコーディングで知り合った東芝レコードを訪ねたことがデビューへとつながった。当初のタイトルは 「黄色い魔法の靴」 で、構成も違っていた。生活感がある歌ばかりだったシーンにおいて、ファンタジックなこの曲が持つインパクトはかなりのものだった。レコーディング所要時間は当時では異例の16時間。
1972.09.20 一人の部屋
ライブのMCでは 「売れなかったシングルの代表」 とネタに。楽曲のクオリティは高く、ファンの間 (特に男性) では根強い人気を保つ。所属事務所から 「1年以内に売れなかったら博多に帰す」 と冗談交じりに脅されていたらしいが、 「僕はもうアルバム1枚作っただけで帰ってもいいと思ってた」 と上田雅利は言う。実際、安部・上田・姫野は大学を退学しておらず、休学届けを出しただけだった。
1973.04.20 心の旅
シングル2枚、アルバム2枚が泣かず飛ばずのまま終わり、やむなく背水の陣を強いて生まれた大ヒット曲。オリコン初登場時は71位 (「魔法の黄色い靴」は75位) だったが、5ヶ月後の9月10日、ついに1位に輝いた。レコーディングは虎ノ門近くにあったテイチク・スタジオ、ライブでの初演は福岡市民会館。安部俊幸はこのレコーディングで初めてギブソンギブソンSGを使用した。
1973.10.05 夏色のおもいで
レコーディング直前にスタッフ判断でリードボーカルを財津和夫から姫野達也に変えて成功した「心の旅」をもう一度、という目論見のもとに制作され、最高位は14位。当初は「風の涙」というタイトルで財津和夫のペンによる詞がつき、普通にAメロから始まる曲だった。しかしまたもスタッフ判断で構成をサビ始まりに変え、はっぴいえんど解散後はシンコーミュージックと作家契約を結んでいた松本隆に作詞を依頼。
1974.01.20 銀の指環
大磯ロングビーチでの合宿で作られ、LAのサンセット・スタジオでレコーディングされた5thシングル。財津和夫が10分(!?)で作り、イントロや間奏のリズム、フレーズも奇をてらったつもりだったのに、その意に反して素直に受け止められてしまい、「まいったな~、と思った」と上田雅利は言う。かつては間奏前の「ヘイ!」が恥ずかしそうだった姫野達也も、今は堂々とシャウトし、ステージ狭しと走り回っている。
1974.06.05 青春の影 (シングルバージョン)
メンバーの確固たる意思で6枚目のシングルに。 「コンサートを主体としてTULIPを存続させるためにはこの曲しかなかった」 と財津。70年代にはライブの締めとして本編ラストに歌われ、その後もハイライト・シーンに必ず登場する曲として君臨し続けている。TBSが「好きな曲アンケート」では見事第一位。収録アルバム 『TAKE OFF』 より後に出ているが、単なるシングル・カットではなくバージョンも異なる。
1974.10.05 ぼくがつくった愛のうた (いとしのエミリー)
ビートルズ御用達スタジオだったロンドンのアビーロード・スタジオでレコーディング。30周年に期間限定で開設されたTULIPオフィシャルサイトでの「思い出の1曲」投票では、もっとも多く票を集めた。「これからも大事に歌っていきたい」とボーカルをとる姫野達也。「好きな曲だからレコーディングでも自分で歌いたかった」という財津の仮バージョンは 『アンソロジー1 レアトラックス』 (ビクター)に収録されている。
1975.02.05 サボテンの花
ドラマ 『ひとつ屋根の下』 主題歌としてリリースから18年を経て大ヒットしたが、75年当時もリリース一週間前からラジオのチャート番組では10位以内に入っていた。財津和夫の実体験を歌った私小説ソング。窓にふりそそぐ~の部分は窓に溶けてゆく~のはずだったが、歌入れのときに1行間違えて歌ってしまい、そのまま誰も気づかずに完パケしてしまった。
1975.07.20 悲しきレイン・トレイン
「レイン」 と 「トレイン」 という韻を踏むふたつの言葉に合わせてメロディが作られ、そこから発展させた曲。 「大ヒット間違いなし!」 とスタッフ間で盛り上がり、予定を繰り上げて緊急リリースされたが地味な結果に終わった。ジャケットは東芝第一スタジオの駐車場で実際に雨の夜に撮影。
1976.04.20 娘が嫁ぐ朝
一人娘の結婚式の朝、亡き妻の墓前に赴く歌。しかし当時の財津和夫は28歳独身。 「早く老人になりたい」 と口癖のように言っていた頃だ。映画『ハリーとトント』を見た後に書いた、という。メンバーが一切登場しないイメージ・ビデオのようなPVが作られたが、その意図は不明。76年のTULIPはデビュー5周年にしてワンマン・ライブが500回を数え、1年中休みなくツアーをしていた。
1976.09.05 風のメロディ
マイナーからメジャーへと移行する転調の絶妙さ、キャラクターが違う複数の声を擁するバンドのツインボーカルが聴きどころ。エンディングのライブ・アレンジもかっこいい。この年の夏は札幌真駒内アイスアリーナと福岡九電記念体育館に計14000人を動員。アリーナ会場でライブ経験があるバンドはなく、ステージ上には警官が立っていた。その模様は名作の誉れ高き2枚組ライブ・アルバムに残されている。
1977.06.05 ブルースカイ
当時TULIPはライブのチケットが日本一とりにくいバンド″と言われていた。この年に新日本フィルとのジョイント・コンサートに挑み 「運命」 と 「未完成」 をミックスしてインストで披露。 「高すぎる青空」 への畏怖の念は財津の永遠のテーマ。 「悲しい詞には明るいメロディをつけたい。悲しいものを悲しく歌ってもそこには何も生まれない」という姿勢も多くのファンの共感を呼んだ。
1977.11.20 WELCOME TO MY HOUSE
シングル唯一の全編英語詞曲で、アルバム・タイトル曲のリカット(オープニングのSEはカットされている)。ドイツのコズミック・ギャルという人気(?)グループがディスコ調アレンジでカバーし、シングルB面として78年9月に日本でもリリース(A面はピンクレディーの「ウオンテッド」)されたが、その経緯は不明。30周年ツアーのときにリハーサル初期の段階では候補曲として挙がっていた。
1978.06.20 夕陽を追いかけて
リリースまでの1年で約150回は歌われた、TULIPとしては異色曲。財津和夫の半生と心情を吐露した私的な詞でありながら、普遍的な説得力を持つ。珍しく歌詞先行で作られ、曲のイメージはロッド・スチュワートの「セイリング」。シングルで5分35秒は異例の長尺だった。30周年ツアーではメニューに入っていなかったが、最終日の福岡市民会館で特別に歌われ、財津和夫が途中声を詰まらせた。
1978.10.20 約束
16ビートの多用で大人っぽいイメージに仕上がったアルバム『Upside-down』のラストに収められ、シングル・カット。「青春の影」と並ぶバラードの名曲として人気が高く、オフィシャルサイトの投票では「あの娘は魔法使い」と並んで3位を記録した。ライブでは財津和夫の歌唱力の確かさが堪能できる。故郷に残してきた恋人のことを想う歌はTULIPにもソロ作にも数多いが、決定版はこの曲、と断言する人も多い。
1979.07.05 虹とスニーカーの頃
デビュー8周年の年、上田雅利と吉田彰が 「自分のバンドを作りたい」 と脱退表明。はなむけとなる曲を作ろう、という意思のもと、シングル候補に挙がっていた数曲の中でメンバーの総意を得たこの曲に決定。歌詞の一言一言まで吟味した結果 「心の旅」 以来のヒットを記録する代表曲となる。オリジナル・メンバーでの最後のライブは8月25日ハワイ。その後、宮城伸一郎を加え6人編成でのレアなツアー。
1980.07.21 I am the Editor (この映画のラストシーンはぼくにはつくれない)
新生TULIPの第一弾シングル。オリジナル・アルバムには収録されていない。タイトルが長いだけではなく、イントロも54秒ある。メンバー・チェンジを経て「新しいTULIPを作ろう」という5人の意気込みと決意が感じられるが、今でこそ当たり前のエディターという単語は、当時まだあまりなじみはなかった。_白いTシャツ″と_赤い口紅″の対比など、この頃から財津和夫の詞の世界が映像的、絵画的になっていく。★吉田彰、上田雅利 が脱退し伊藤薫、宮城伸一郎が加入。
1981.03.05 さよなら道化者 (シングルバージョン)
メンバー・チェンジから1年が過ぎてリリースされたアルバム 『THE LOVE MAP SHOP』 と同日リリース。シングル・バージョンは普通にフェイドアウトしていくが、アルバム・バージョンはにぎやかに楽しく終る。嘘つきと戦争が大嫌いという一節があるが、第二期の特質のひとつであるラブソングにメッセージをこめる手法が早くも試みられている。2ヵ月後の5月、TULIPはデビュー10周年を迎える。
1981.10.01 ふたりがつくった風景
この年の3月に 『THE LOVE MAP SHOP』 をリリースし、8月は10周年記念の名古屋城コンサート、11月はこの年2枚目のアルバムとなる 『THE 10th ODYSSEY』 をリリース、と精力的に活動したTULIP。シングル曲がラブソングの域をはずれることはなかった。財津のハイトーン・ボイスが印象的なこの曲は有線でロングヒットを記録したが、ツアー先のどの土地でも最多リクエスト曲は「約束」だったという。
1982.04.01 We Can Fly
当初はB面の予定だったが完成後の評判の高さから逆転。ここ一連の流れの中では例外とも言えるほど軽やかでポップな質感がその一因。8月14日によみうりランドを借り切り、21000人を集めて1000回記念ライブを開催。ファンにとっては忘れられない1日となった。30周年ツアーで演奏され、「みんな手拍子をちゃんとやってくれるだろうか」というメンバーの心配は見事杞憂に終わったことが記憶に新しい。
1983.03.01 星空の伝言
第二期のシングルでもっとも完成度が高い、という声が多い。雨に濡れたアスファルトが信号の色に染まる光景が目に浮かぶ。レコーディングでリードギターを担当しているのは宮城伸一郎だが、ライブでは安部と宮城のツイン・リードが聴きどころだった。その間弾き手がいなくなってしまうベースはステージ袖からスタッフがシンセベースで補っていたが、そのシンセベースはオフコースからの借り物だった。
1983.07.01 夏の夜の海
前作が11ヶ月ぶりのシングルだったのに対し、今回は4ヶ月という短いタームでのリリース。数あるシングル曲の中でもっとも異質なのがこの曲だろう。レコーディングにかなりの時間を費やしたという財津和夫のファルセット・ボイスがメロディの上を漂うように浮かび、AOR的なコード進行と神秘的な歌詞が話題になった。渋谷公園通りがTULIPストリートに。PARCOの壁にはこのジャケットの絵が描かれていた。
1983.12.21 たったひとりのオーディエンス (アルバム未収録)
この年、3枚目のシングル曲。秋のツアーから既に演奏されていたが、イントロで使われているシンセ音は、当時としてはサンプリング・シンセの最高峰だったイーミュレーターをいち早く取り入れてつくられた。幻想的なサウンドにボーカルが溶けるようなミックスが秀逸。ジャケットはレコーディングの合間にスタジオの別室にて撮影。珍しく太陽光線が差し込むもとでの写真となった。
1983.03.21 愛の迷路
JAL PAK 84のイメージソングとしてハワイ・ノースショアの映像とともにこの年の2月中旬からオンエアされていたが、リリース時にはもう終了していた。意外にもTULIPの楽曲が企業のイメージソングに起用されたのはこれが初めて。同アルバムからは「恋は素顔で」「冬の街」も他企業のイメージソング候補に上がったという。ジャケットは六本木のスタジオで撮影。寝姿にメンバーの個性が出ているが、 「俺、今でも家でこんな感じ」 と宮城伸一郎は笑う。
1984.06.30 it WAS love
AB面ともアルバム未収録。特にB面は現在でもアナログのこのレコードでしか聞けない。 ジャケットはふたつりで、内側に”8.11パゴダ”とアルバム「I dream」の広告、財津和夫出演の映画の封切予定などを掲載。
1985.01.19 もっと幸せに素直になれたら
A面の 「もっと幸せに素直になれたら」 はアルバム・ヴァージョンと異なるシングルバージョン。B面の 「ぼくがつくった愛のうた(いとしのEmily)(LIVE)」 は 「8.11 PAGODA」の時のものだがライヴ・アルバムには未収録でこのシングルでしか聞けないトラック。
1985.06.29 アイ・アイ・アイ
第二期チューリップのメンバーとしては最後のシングル。
ジャケットは限定のポスター型。片側一面がポスター10月までのカレンダー、その裏が本ジャケット面になっている。85年8月安部・姫野・伊藤が脱退し丹野義昭、松本淳、高橋裕幸 (87年5月)加入。89年7月8日解散。
1985.10.19 涙のパーティー
ジャケットはふたつ折り、裏側に財津によるメンバー脱退の説明、シンプジャーナル大越正実氏による解説、”I LIKE PARTY”ツアーのスケジュールを掲載。 既発アルバムからのシングル・カットはめずらしく、”説明のため”がその理由であろう。
1986.03.31 くちづけのネックレス
メンバー・チェンジ後初めてのシングル。
B面はシングルでは初めて宮城の作品。 「愛のサン・ジョルディ」 キャンペーン・イメージソング。
1986.05.01 愛の風
ファンハウスからは最後のシングル。アルバム 「I Like Party」 からのシングル・カット。
A面は日本テレビ系列の連続ドラマ 「花いちばん」 主題歌、B面は医療機器メーカー 「テルモ」 イメージソングに起用された。
1987.05.01 モーニング・スコール
日本コロムビア移籍後初のシングル。
ジャケット裏と歌詞カード面、レーベルに”’87大阪ガスシャワーイメージソング”とクレジットされている。また歌詞カード面に6月1日発売予定のニューアルバム「Primary Color」の広告を掲載。
1987.09.01 抱きあって
このシングルはアナログ盤と当時移行時期とかぶさるデジタル盤の12センチCDもリリースされ、新録音された 「セプテンバー1987」 が追加収録された。アナログ盤が2曲にたいし、ジャケ写は同じデジタルは3曲という試験的なものだった。
1988.04.01 真っ赤な花と水平線
同時リリースのアルバム 「そんなとき女を好きになる」 からのシングルカット。この曲も8センチCDシングルと同時発売された。そのため、急激にデジタル系になりアナログ盤は衰退の一途をたどることになる。
1989.02.01 ストロベリー・スマイル
最初の解散となったチューリップの通産35枚目のシングル。と同時に日本コロムビアに残した最後の曲となる。89年7月8日解散。97年、デビュー25周年を記念し、財津・安部・上田・姫野・宮城の面々で期間限定で再結成。2000年夏から2001年春にかけては再々結成コンサートツアーが行われた。
1997.04.09
サボテンの花
再結成第1弾シングル。
フジテレビ系ドラマひとつ屋根の下2主題歌
シングル・バージョン
1997.04.23.
We believe in Magic
再結成第2弾シングル。
TBS系 「TVブロードキャスター」 エンディングテーマ
1997.07.02
シェア
ハウス食品完熟トマトのハヤシライスソースCMソング
1997.12.17
この愛は忘れていいよ
1997年の再結成の年に4枚目のシングルとハイペースのリリース。
2002.06.05
あなたのいる世界
再結成も3度目
リリースはこのマキシ・シングルのみ。
2005.05.21
hope
2006.10.25
青春の影(2006 Anniversary Mix)
TONY 活動1980~1982
1979年 チューリップを脱退した上田雅利が加瀬田靖、西村昌敏、佐藤真紀 と結成。
1st single
1980.06.20
ひと夏のスクリー c/w インディアン・サマー
2nd single
1980.11.21
TWILIGHT FREEWAY c/w VEGA
3rd single
1981.05..21
ウィンディ・シャワー c/w Take Off The City
4th single
1981.11.21
素顔のままで c/w Sea Wind
オールウェーズ 活動1986~1993
チューリップを1985年8月に脱退した安部俊幸、姫野達也、伊藤薫が新人ベーシスト、風祭東(かざまつり・あずま)を加え1986年3月20日結成。89年2月に伊藤が舞台監督に転身のため脱退。 3月に名前をTHE ALWAYSとし後任ドラマーにチューリップのオリジナルメンバーだった上田雅利が加入した。
1st single
1986.10.21
好きさ c/w YOUR LOVE
2nd single
1987.5.21
8月の熱い砂 c/w そして僕を見て
3rd singl
1987.10.21
空が広がる c/w 新青年
4th single
1989.05.21
THE SKY’S HIGH/しあわせのチャイニーズ・パン
5th single
1990.8.21
夏の彼方へ
SPINNING AROUND
6th single
1992.6.17
いつも笑顔に恋してる c/w 虹が消える前に
7th single
1993.07.07
夏色のおもいで c/w 悲しきレイン・トレイン
8th single
1993.10.27
海が見てただけ c/w 僕の宝物
by cress30 | 2004-03-30 00:01