2004年 07月 31日
朱里 エイコ 全シングル
1964年11月16歳で渡米。ボブ・アルシルバーに師事。アメリカ、ハリウッドで当時有名だったプロデューサー、トーマス・ポールが来日した際、2年間の契約で、ラスベガスを中心に各地のショービジネスにデビュー。1971年2月には一時帰国し、ワーナー・パイオニアと契約する。アメリカで十分にエンターテイナーとして通用するようになり、再び日本で活動するため1972年10月、最後のショーを開いて帰国。 この年1月に発売した 「北国行きで」 も大ヒットし人気がでる。 第23回NHK紅白歌合戦に初出場。
1972年に「北国行きで」でヒットを出したころから、実力重視ではなく、ヒット曲重視の日本の芸能界に疑問を抱き始める。 ヒットがなければテレビに出られない、なぜ自分は日本人に受けいれてもらえないのだろうか、ということに葛藤し続けた。この頃日本では、アイドル歌手が全盛の時代であり、周りから実力派といわれるようになってからも、人一倍努力を怠ることなく様々な経験を積んできただけあって、このギャップがさらに彼女を苦しめることになる。 ヒット曲がなかなか出ず、世間から忘れられてしまうのではないか、という焦りも付きまとった。
鬱病状態に陥りながらも、なんとかステージをこなしていたが、1983年6月に名古屋で3度目の失踪事件を起こしてしまう。 この後しばらく入院したが、彼女の復活を望む声は多く、また徐々に活動を始める。悲劇は続いてしまう。赤坂コルドンブルーに出演して1週間たったある日、開演時間を過ぎても会場に現れない彼女を心配し、関係者が品川区の自宅を訪ねた。部屋でパニック状態に陥り、苦しみ悶えている姿で発見される。結局この日の公演は中止になり、この事件で彼女は信用を失ってしまう。さらにはストレスなどいろいろなことが重なり、肝臓病を患ってしまう。生きるか死ぬかという状態が続き、5年という長期にわたって入院生活が続いた。2004年7月31日、虚血性心不全のため自宅にて死去。56歳没
朱里エイコ 全シングル
1964.05.05 ブルー・ポニー 田辺エイ子名義
1964.10.05 三人三羽 田辺エイコ名義
以下 朱里エイコ名義
1967.04.10 恋の落とし穴/孤独の太陽
1967.08.01 ジ・エンド・オブ・ラブ/マシュ・ケ・ナダ
1967.11.20 イエ・イエ/恋のアングル
1968.05.01 アニマル1の歌
1968.06.01 ハバナ・アンナ /クレイジー・ラブ
1968. 07.01 まぼろしの声 /悪魔のとりこ
1969.04.01 しのび泣きの恋 /むかしの貴方
1969.11.01 恋のブラックカード/沈む夕陽は止められないの
1971.07.25 恋のライセンス/ミスタースマイル
1972.01.25 北国行きで/時の流れにのこされて
1972.07.10 心の痛み/青春のときめき
1972.09.25 恋の衝撃/あたたかい胸
1973.02.10 見捨てられた子のように/愛のサンセット
1973.07.10 ジェット最終便/渚のハイウェイ
1973.11.25 あなたの勝ちだわ/そんなのないわ
1974.03.25 二時から四時の昼下り/雨ものがたり
1974.07.25 白い小鳩 /愛の場所
1975.04.25 AH SO! /悲しみの鳥が飛び立つとき
1976.03.00 愛のめざめ /絶体絶命
1977.03.00 明日への願い /愛のフィーリング
1977.06.25 めぐり逢い/陽はまた昇る
1977.08.01 音に魅せられて/
1977.11.25 ジョーのダイヤモンド /オクラホマ・モーニング
1978.10.25 SAMURAI NIPPON /サムライ・ニッポン
1979.05.25 窓あかり/星と女
1979.10.10 愛は旅びと/ Everytime愛
1981.08.25 知らせないで /DON'T BE AFRAID
1987.09.25 すべての愛をあなたに /グレイテスト・ラブ・オブ・オール
by cress30 | 2004-07-31 23:59 | ◆朱里エイコ