2005年 04月 10日
●キャロル 全シングル&アルバム
キャロル(CAROL)
1972年デビュー、1975年解散。 3年という短期間の活動ながらも強いインパクトを残し、以降の日本ロックシーンに絶大な影響を与えた伝説のバンド。
プロデビューにおいては、内田裕也のレーベルか、ミッキー・カーチスのレーベルかでメンバーは迷った(ほぼ同時期に誘いを受けていた)。結局、バンドは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選んだ。 しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーとも袂を分かつ。
ジョニーは当時、ドラッグに依存する生活ぶりで破綻をきたしていたこともあり、何度か失踪を繰り返していた。矢沢がバンド・マスターとしての地位を確立。暫くは3人での活動を進め、ジョニーを待ち、探したが出て来なかったので新しくメンバーを加えて活動した時期も。
◎矢沢永吉別ページ
◎ジョニー大倉別ページ
◎内海 利勝別ページ
矢沢永吉 ジョニー大倉 内海利勝 ユウ岡崎
1st single
1972.12.20 ルイジアンナ/最後の恋人
2nd single
1973.1.25 ヘイ・タクシー/恋の救急車
3rd single
1973.2.25 やりきれない気持ち (シングルバージョン)/ホープ
4th single
1973.3.25 レディ・セフセンティーン/愛の叫び
1st 1973.3.25 ルイジアンナ キャロル
A
1.ルイジアンナ
2.ヘイ・タクシー
3.やりきれない気持
4.ホープ
5.恋の救急車
6.最後の恋人
B
1.グッド・オールド・ロックン・ロール
2.メンフィス・テネシー
3.ワン・ナイト
4.トゥティー・フルティー
5.ジョニー・B・グッド
6.カンサス・シティー
■3ヶ月連続シングルリリースという画期的なデビューシングル3枚とビートルズ等のカバー収録。ドラムスは相原誠「ホープ・ワンナイト」の他は岡崎ユウ。
5th single
1973.4.25 彼女は彼のもの/憎いあの娘
6th single
1973.5.25 0時5分前の最終列車/二人だけ
7th single
1973.6.25 ファンキーモンキーベイビー/コーヒーショップの女の娘
2nd 1973.7.25 ファンキーモンキーベイビー
A
1. ファンキー・モンキー・ベイビー
2. 憎いあの娘
3. レディ・セブンティーン
4. コーヒー・ショップの女の娘
5. 恋する涙
6. 二人だけ
B
1. 愛の叫び
2. ハニー・エンジェル
3. いとしのダーリン
4. 彼女は彼のもの
5. ミスター・ギブソン
6. 0時5分の最終列車
■大ヒットの 「ファンキー・モンキー・ベイビー」他、キャロルの名をしらしめたオリジナルアルバム。毎月リリースのシングルもタイトルチューンまでの6枚で一区切り、
ライブ 1973.12.21 ライブ・イン リブ・ヤング
A
1. ヘイ・タクシー
2. 最後の恋人
3. レディ・セブンティーン
4. コーヒー・ショップの女の娘
5. 憎いあの娘
6. ファンキー・モンキー・ベイビー
B
1. 彼女は彼のもの
2. やりきれない気持
3. 愛の叫び
4. ルイジアンナ
5. 恋の救急車
6. ジョニー・B・グッド
■1973年10月23日にフジテレビ第一スタジオで収録したリブヤングの中でのライブ。演奏された曲はこの他にもあったが、当時のアナログ時代の収録時間からこの収録になった。
こちらはカセット盤。
アナログでは収録がカットされた
トラックが収められた。
セットリストの曲順も異なる。
(画像クリックで拡大します)
8th single
1974.2.05 涙のテディーボーイ/番格ロックのテーマ
9th single
1974.7.25 夏の終わり/泣いてるあの娘
3rd 1974.7.25 キャロル・ファースト
A
1. CAROL(子供達に夢を)
2. ヘイ・ママ・ロックン・ロール
3. 夢の中だけ
4. 素敵な天使
5. カモン・ベイビー
6. 甘い日々
B
1. ズッコケ娘
2. ふられた男
3. 娘(クーニャン)
4. ビブロス・ピープル
5. 雨のしずく
6. 悪魔の贈り物
7. CAROL
■解散の噂もあったころに製作されたオリジナルアルバム。タイトルのファーストの意味はメンバーが初めて作詞作曲を担当したことからによるもの。同時リリースシングルは未収録
10th single
1974.12.10 ラストチャンス/変わりえぬ愛
ベスト 1974.12.25 キャロル・ゴールデン・ヒッツ
■6ヵ月連続のシングル発売と,伝説になるべくデビューを飾ったキャロル。1975年の衝撃的な解散までの3年の間に、音楽の垣根を超えてさまざまな影響を残して駆け抜けた伝説のロックンロールバンド、キャロル。全盛期のヒット曲を満載したベストアルバム。ジョニー大倉のつづる繊細な詞をつつむ甘い声と矢沢永吉のキャッチーで美しいメロディの上で踊るヴォーカルが絶妙にからみ合う。ロックンロールを見事に開花させたオリジナルアルバム未収録曲の 『夏の終り』 『番格ロックのテーマ』 『泣いてるあの娘』 『涙のテディー・ボーイ』 4曲が収録されたベスト。
A
1.夏の終り
2.番格ロックのテーマ
3.泣いてるあの娘
4.ヘイ・タクシー
5.やりきれない気持ち
6.憎いあの娘
7.恋の救急車
8.ファンキー・モンキー・ベイビー
B
1.涙のテディー・ボーイ
2.彼女は彼のもの
3.ハニー・エンジェル
4.いとしのダーリン
5.レディー・セブンティーン
6.愛の叫び
7.0時5分の最終列車
8.ルイジアンナ
1975.3.25
ルイジアンナ/涙のテディー・ボーイ/ファンキー・モンキー・ベイビー/番格ロックのテーマ
1975.4.25 GOOD-BYE CAROL
A
1. ルイジアンナ
2. ヘイ・タクシー
3. やりきれない気持ち
4. 恋の救急車
5. 最後の恋人
6. 涙のテディー・ボーイ
7. ラスト・チャンス
8. 捨てたはずのコイン
B
1. ドライヴィング・スクール(試作)
2. ファンキー・モンキー・ベイビー
3. 同
4. 憎いあの娘
5. グッド・オールド・ロックン・ロール~のっぽのサリー
6. メンフィス・テネシー
7. 緊急電話
● A面の (1~5) はデモテープで全曲英語。6.7は、シングル用のデモテープ。8は、ソロ活動を控えていた 「恋の列車はリバプール発」 の原曲デモ。B面の3~6は、1975.1.19の日大講堂に於けるライブ音源。7は最後のスタジオ録音トラック。全体にデモカセット音源で構成された矢沢所有のテープがレコード化。ジャケ写真も初回分 (左) は無地で、再発 (中) でも大してデザインの変化はない。画像クリック拡大↑
1975.4.25
ラストチャンス/やりきれない気持ち/夏の終わり/レディセブンティーン
ライブ 1975.5.15 ラスト・ライブ 1975.4.13
A
1. ファンキー・モンキー・ベイビー
2. 憎いあの娘
3. グッド・オールド・ロックン・ロール
4. メンフィス・テネシー
5. 涙のテディ・ボーイ
6. やりきれない気持
7. 変わり得ぬ愛
B
8. ビブロス・ピープル
9. ユーヴ・リアリー・ガッタ・ホールド・オン・ミー
10. 愛の叫び
11. ヘイ・ママ・ロックン・ロール
C
12. ヘイ・タクシー
13. 夏の終り
14. ゲスト紹介
15. ジョニー・B・グッド
16. ズッコケ娘~スローダウン
17. ルイジアンナ
D
18. エニタイム・ウーマン
19. ファンキー・モンキー・ベイビー
20. ラスト・チャンス
※72年から75年の解散までの3年間という短い活動期間ながら、日本を代表する伝説のバンドとしてファンを魅了し続けているキャロル。1975年4月13日、東京日比谷野外音楽堂で行われた解散コンサートのドキュメントをライブ収録。
1975.5.15
ルイジアンナからファンキーモンキーベイビー、ライブ・イン リブ・ヤング、キャロル・ファーストの4枚が解散を機にデザインが一層され再リリースされた。このジャケ写はのちにオリジナルに戻るこの時期のみのものだった。
ベスト 1975.9.25 キャロル アプローズ
■2枚組ベスト。とい言っても、1stアルバム 『ルイジアンナ』 と 2ndアルバム 『ファンキー・モンキー・ベイビー』 の2枚をAB面をそれぞれ差し替えただけのもの。当時の価格が3800円なので、それぞれそろえるより安価だった。
A
1.ルイジアンナ
2.ヘイ・タクシー
3.やりきれない気持
4.ホープ
5.恋の救急車
6.最後の恋人
B
1. 愛の叫び
2. ハニー・エンジェル
3. いとしのダーリン
4. 彼女は彼のもの
5. ミスター・ギブソン
6. 0時5分の最終列車
C
1. ファンキー・モンキー・ベイビー
2. 憎いあの娘
3. レディ・セブンティーン
4. コーヒー・ショップの女の娘
5. 恋する涙
6. 二人だけ
D
1.グッド・オールド・ロックン・ロール
2.メンフィス・テネシー
3.ワン・ナイト
4.トゥティー・フルティー
5.ジョニー・B・グッド
6.カンサス・シティー
1975.11.25
ルイジアンナ/ホープ/ミスターギブソン
ヘイ・タクシー/いとしのダーリン/番格ロックのテーマ
ファンキー・モンキー・ベイビー/コーヒー・ショップの女の娘/ジョニー・B・グッド
ハニー・エンジェル/憎いあの娘/恋する涙
0時5分の最終列車/最後の恋人/二人だけ
レディ・セブンティーン/恋の救急車/ハニー・エンジェル
涙のテディ・ボーイ /愛の叫び/彼女は彼のもの
1976.3.5
キャロルとディスコ・パーティー
キャロルはA面のみ
B面は、クック・ニック&チャッキー、つのだ・ひろ、ミッドナイト・スーパー
1976.4.25
ベスト 1976.5.25 ゴールデン・ヒッツ・マークⅡ
■チャック・ベリーの代表曲を陽気にカヴァー、好きな女の子にもてあそばれるジレンマを描いたポップなロックナンバーなど、第一弾ベストとタブらない選曲。73年の1stアルバム 『ルイジアンナ』 から1974年の
4thアルバム 『キャロル・ファースト』 までの作品。アルバム未収録だったラストシングル曲 『ラスト・チャンス』 『変わり得ぬ愛』 をセレクト。いわくつき (録音を逆回転した箇所がワイセツ音) だった 『緊急電話』 も選曲された。洋楽ロックへのあこがれやバンドの勢いが伝わってくる熱いベストアルバムの第2段。
A
1.緊急電話
2.ジョニー・B・グッド
3.ズッコケ娘
4.素敵な天使
5.ワン・ナイト
6.ヘイ・ママ・ロックン・ロール
7.娘(クーニャン)
8.変わり得ぬ愛
B
1.ラスト・チャンス
2.グッド・オールド・ロックン・ロール
3.夢の中だけ
4.ビブロス・ピープル
5.カモン・ベイビー
6.悪魔の贈り物
7.カンサス・シティー
8.キャロル
1977.6.10 イントロデューシング・キャロル
■このアルバムは当時のフォノグラムがプロモーション用の音源の便乗の発売だったもの。A面はファーストアルバムの 「ホープ」 を除くもの。これは、ドラムの相原誠が脱退したため、ホープのレコーディングのクレジットを除くための苦肉の策。B面は音楽業界者のイナタビュー。 『やりきれない気持』 『恋の救急車 』 はオリジナルとは別ミックスが収録されている。
A
1.ルイジアンナ
2.ヘイ・タクシー
3.やりきれない気持
4.恋の救急車
5.最後の恋人
B
1.星加ルミ子 (元ミュージック・ライフ編集長)
2.篠山紀信 (写真家)
3.井上尭之 (音楽家)
4.木崎義二 (音楽評論家)
1979.6.25 キャロル・ゴールデン・ヒット
1975年12月25日にリリースしたベストに 「ミスター・ギブソン 」 「コーヒー・ショップの女の娘」 「最後の恋人」 「二人だけ 」 の4曲を追加編集したもの。当時の矢沢のソロ活動に便乗したもの。
A
1. 夏の終わり
2. 番格ロックのテーマ
3. 泣いてるあの娘
4. ヘイ・タクシー
5. やりきれない気持
6. ミスター・ギブソン
7. 憎いあの娘
8. 恋の救急車
9. コーヒー・ショップの女の娘
10. ファンキー・モンキー・ベイビー
B
1. 涙のテディー・ボーイ
2. 彼女は彼のもの
3. ハニー・エンジェル
4. 最後の恋人
5. いとしのダーリン
6. レディ・セヴンティーン
7. 二人だけ
8. 愛の叫び
9. 0時5分の最終列車
10. ルイジアンナ
1979.7.25
ファンキー・モンキー・ベイビー/ルイジアンナ
1979.8.25
夏の終わり/涙のテディー・ボーイ
1979.10.25 ゴールデン・ヒッツ・マークⅡ
同名の76年5月の既発盤に 「ふられた男」 「トゥティ・フルティー」 「甘い日々」 「雨のしずく」の4曲を追加編集したもの。こちらの編集はアルバムから選曲されたものが多い。
A
1. 緊急電話
2. ジョニー・B.グッド
3. ズッコケ娘
4. 素敵な天使
5. ふられた男
6. ワン・ナイト
7. ヘイ・ママ・ロックン・ロール
8. トゥティ・フルティー
9. 娘(クーニャン)
10. 変わり得ぬ愛
B
1. ラスト・チャンス
2. グッド・オールド・ロックン・ロール
3. 夢の中だけ
4. ビブロス・ピープル
5. カモン・ベイビー
6. 悪魔の贈り物
7. 甘い日々
8. 雨のしずく
9. カンサス・シティー
10. キャロル(子供達に夢を)
1979.11.25
ファンキー・モンキー・ベイビー/ルイジアンナ
1992.11.26 レア・トラック~ラスト・チャンス
■1973年10月23日フジテレビ・「リブ・ヤング」 で、73年リリースのライブ盤に未収録だった音源(8~14) と、オリジナルアルバムに未収録だったシングルテイク(1~6) に最後のスタジオ録音(7) を一枚のCDにまとめたもの。マニア向け作品。
1. 涙のテディ・ボーイ
2. 番格ロックのテーマ
3. 夏の終り
4. 泣いてるあの娘
5. ラスト・チャンス
6. 変わりえぬ愛
7. 緊急電話
8. グッド・オールド・ロックン・ロール
9. スローダウン
10. メンフィス・テネシー
11. ユーヴ・リアリー・ガッタ・ホールド・オン・ミー
12. ヒッピー・ヒッピー・シェイク
13. トゥティー・フルティー
14. ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイング・オン
2003.1.31 ザ・ベスト キャロル
■キャロルの代表曲を完全に網羅したベスト・アルバムがデビュー30年を祝してデジタル化。皮ジャン、グリースで固めた髪型、眼光するどいルックスといった表面的なイメージから、「昔の不良(または地方のヤンキー)のための音楽」というとらえ方をされることも多いキャロルだが、このアルバムを聴けば、彼らのロックンロールが純粋に音楽として優れていることが、はっきりとわかるはずだ。美しいメロディを持つ楽曲、繊細に組み立てられたアレンジ、レイザー・シャープなバンド・アンサンブル。それはまるで、ハンブルグ時代のビートルズのように、永遠の輝きを放っている。
1. ファンキー・モンキー・ベイビー
2. ルイジアンナ
3. 二人だけ
4. やりきれない気持ち
5. 涙のテディ・ボーイ
6. GOOD OLD ROCK’N’ROLL
7. 憎いあの娘 8. ハニー・エンジェル
9. カモン・ベイビー
10. ヘイ・タクシー
11. 愛の叫び
12. 夏の終り
13. ミスター・ギブソン
14. 0時5分の最終列車
15. 彼女は彼のもの
16. CAROL (子供達に夢を)
17. レディ・セブンティーン
18. ズッコケ娘
19. 番格ロックのテーマ
20. 恋の救急車
21. コーヒー・ショップの女の娘
22. ラスト・チャンス
23. ホープ
24. 甘い日々
25. 緊急電話
あのジョニー大倉が激白! 仰天死亡説の真相からキャロル再結成の行方まで
2009.9.6
元キャロルのメンバーでロック歌手のジョニー大倉に、突如「死亡騒動」がわき起こったのが6月。だが、ジョニーは7月半ばには元気な姿でライブをこなしていた。一部メディアも追いかけたあの騒動はなんだったのか? 自身は、常につきまとう「キャロル再結成」をどう考えているのか? ジョニーのロック魂を、「脱がせ屋」高須基仁が丸裸にする。
ジョニー(以下、J)さて、今日は何を話せばいいのかな。僕はあまりべらべらしゃべるほうではないので......だからテレビタレントにはなれないんだけど。マスコミはbasically I hate them、好きじゃないんだ。
高須(以下、T) 私は聞き手の達人だから大丈夫。まず、今回の死亡説について。6月25日の深夜、一部の芸能関係者に「Urgent Notice(緊急告知)」と題した英文のFAXが送られてきた。「ジョニー大倉が2009年6月6日に肝臓がんで死去した。すでに故郷の中国ウイグル自治区に埋葬されている。ロックンロールの王様を悼む」と。差出人は、キャロルのデビュー曲と同じ「ルイジアンナ」。いったいなんだったとジョニーは思う?
J 今でもよくわかってないけど、キャロルあるいはジョニー大倉のファンと称する輩の暴走行為じゃないかなとも思ってるんです。僕が3月に肝臓の悪性リンパ腫の手術を受けたのは事実。そのことを詳しく知っている連中はあんまりいないんですけど、どこで漏れたのか、僕の体を気遣ってライブを中止にしたかったのか、いたずらでもちょっとやりすぎじゃないかな。
T 去年の12月、公式サイトを閉めたとき、厭世的なコメントを残していたよね。「ボクはまったく、ちぐはぐな今の地球に少々疲れました」 とか。
J サイトはいろんな事情があって閉めたんですが、僕は作詞家で物書きなので、物事の最終章はロマンチックに終わりたいと思った。実は......スポンサーが3年間いたんだけど、その会社の業績が悪くなったために、ポンと捨てられたわけです。それで「今までかかった費用を返せ」とまで嫌みを言われて......サイトに書いた言葉には、そういったことへの多少の腹いせも含まれています。以前は「ジョニーは天才だ、神様だ」って言ってたのに。その人は僕の後輩なんです、在日の。そういう意味も含めて、互いに盛り上げたいと思ったけど、最終的にはいい別れ方ではなかった。
T 去年、ロスでレコーディングしたというアルバムの発売はどうなるの?
J わからない。その会社が借金のカタにそのアルバムを債権者に渡しちゃったんです。『抱いて抱いて抱いて』というタイトルで、キャロルらしい無国籍なメロディに、英語と日本語がまざった無国籍な歌詞。"キャロリズム"が熟したいい作品なんだけど......くやしいですよ。それで、僕は破滅的な精神状態になったんです。
「理由なきジャンプ」で人生が大きく変わった
T 死亡説が誤報だとわかって、ジョニーと「会おう」ということになったんだけど、会ったときは愕然とした。別人なんだもん。すっかり痩せて目だけギョロっとして、感染症予防に手袋してるし。本当に死んじゃうんじゃないかと思ったよ。それから何回か会ったけど、会うごとに健康的になってる。
J 高須さんは今の僕の苦しい胸の内を緩めてくれる人なのかなあと思うと、血液がいいほうに流れたんだと思う。
T ジョニーを死なせるわけにはいかないでしょ。お子さんも3人いるし。長男、長女、次男。お孫さんは?
J 長女の孫が2人いる。
T それじゃ死ぬに死ねないよね。ジョニーは一時すごくダイエットをしていたけど、私はキャロルの頃に戻りたかったんじゃないかと思ってる。70年代、キャロルはみんな美しかった。あの雰囲気に戻したいんじゃない?
J そもそも真樹先生【※真樹日佐夫=ジョニーが通う空手道場の宗師。漫画原作者としても活躍】と初めてお会いしたのはキャロル時代なんです。キャロルの仕事で空手の一日体験をしたときに、神々しい肉体を持った若き日の真樹先生に会った。その後、キャロルが75年に解散して、81年に映画『遠雷』で「日本アカデミー賞優秀助演男優賞」をもらって、87年まで、僕は誰もが認める俳優として飯がくえてた。
T すごかったね。NHKの時代劇『武蔵坊弁慶』(86年)にも出てね。
J 88年の大河ドラマ『武田信玄』出演も決まってたんです。すでにその2話分を撮り終えてた87年10月25日、富山のホテルの7階からジャンプして重傷を負い、すべてが終わりました。
T のちに「理由なきジャンプ」という名言が生まれ、それがきっかけで窪塚洋介が転落事故を起こした際に私がジョニーを、この事故のレポーター役として『サンデージャポン』(TBS)に引っぱり出した。ジャンプした当時は、相当ストレスあったんじゃない?
J ありました。
T そのストレスは、歌をやってないから?
J 歌っても声が出なくて、阿久悠さんと組ませてもらったりあの手この手で売り出したんだけど、あまりよくなくて。イヤイヤ歌ってました。阿久さんの心の中に入り込めなかったのが、残念でした。
T 俳優として認められていく一方で、矢沢(永吉)は歌手としてヒットを飛ばしてるし、自分はどの方向に行けばいいのかって迷っていたんだろうね。
J うちの母が死んだのが79年。その前年、矢沢さんが「時間よ止まれ」で初めて大ヒットした。母が死ぬ直前にか細い声で「あんた、永ちゃんが暗い歌つくったのよ。私には理解できない。キャロルみたいな楽しい歌はつくれないのかな」と言いました。それが最後の言葉で、その「楽しい歌」を僕は求めたかった。最愛の母が死んだとき、僕は「母のあそこにキスさせてください」と医者に言って、異常な行動かもしれないけど、僕が生まれてきたところにキスしました。
T 最高の供養だと思う。で、あの「理由なきジャンプ」から復帰後は、Vシネマで活躍し始めた。
J でも、しばらくして2〜3年家に閉じこもった。40代のころでした。毎日退廃的なことばかり考えて、昼間から睡眠薬飲んで、お酒飲んで、ピザ頼んで、γ-GTが1000くらいになった。半自殺行為ですよ。若き日のキャロルはひとつの時代をクリエイトしたというのに、日本という社会はそういった人間たちをなぜリスペクトしないのかって、たまらなかった。
T 40代でそういうふうに閉じこもったときは、どういうふうに脱したの?
J 腐った心を直すために、いちばんキツいとされる真樹先生の道場に再入門したんです。それが46歳のとき。100キロ以上ある先輩弟子たちにボコボコにされたけど、どっちみち死ぬんだったら、道場で死んだほうがいいという気持ちもあったから、がんばれた。キャロルとか在日とか、僕の人生のいろんなものが汗で流れた。それで50歳で黒帯になりました。
キャロルだけの音楽 矢沢永吉への複雑な思い
ジョニー(以下、J) 僕は横浜で生まれて、外人の居住区に住んでたから「ジョニー」なのね。おやじは荷役の親方だったけど、5歳のとき死んだ。二号さんだった僕のおふくろは血筋が韓国ということで、3人の子どもを連れて川崎の朝鮮人部落に身を寄せたけど、おふくろは日本で生まれたある種の"日本人"なんですよ。だから耐え難くて1年といられなかった。それで、日本人の社会に入った。僕は自分がコリアンだと思ったことはないんですよ。5歳の頃から英語をしゃべれるし。不思議な在日だった。当時は、学校でなぜ石投げられるのか、意味がわからなかった。北朝鮮の帰還事業が行われていたことが関係していたというのは、あとから知ったんです。
高須(以下、T) 私は日本人だけど、金嬉老が近くに住んでて、けんかのやり方は彼に教わった。今、「高須は韓国人」と言われることがあるけど、あえて否定してません。むしろ、日本人に生まれた自分が結構つまらないなと思うくらい。芸能界でも、韓国人じゃないと、最後のところは入れてくれないんだよ。
J 僕が高校2年で中退して音楽を本格的に始めた頃、おふくろは「スナック美香」を開店しました。そこへアルバイトにきたかわいい人がエミリーさん(妻)だった。僕が19歳で、彼女が18歳。僕は童貞だった。昔、エレキ持つということはモテたいってことなんだけど、僕はまじめに音楽を仕事にしたいと思ってた。不思議な青年だった。
T すごい純愛じゃない。
J でも、そのあと悪いことをいっぱいしちゃったけどね。そして、楽器屋に矢沢さんが出したバンドメンバー募集の告知を見てキャロルになった。当時、スナック美香には、左翼の人がよく来てた。赤軍派とかああいう人たちの中には、今でもキャロルのファンと称して、つながりを残している組織があるという噂話があるんですよ。
T 京浜安保共闘が70年頃終わって、蒲田、川崎あたりにいちばん怖いヤツらが残ってたといわれてるね。私は今でも危ない。この間は全学連の残党に腕を刺されて大変だったよ。そういえば、キャロルの解散ライブではセットが炎上したけど、あれは演出?
J あれは火薬の事故ですね。
T あれを見て青春が終わったなと思った。ちょうど私はおもちゃのトミーに入社して数年たった頃で、キャロル解散の前年、おもちゃ見本市を大手町で開いたの。そしたら初日、200メートルと離れていない三菱重工ビルがドカーンと爆破された。すぐに私宛てに電話がかかってきて、「高須、ざまあみろ」って......。私はまったく関係ないのに、警察から「おまえがやったんだろう」って疑いをかけられて大変だった。あの炎と解散ライブの炎が重なるんだよ。ところで、永ちゃんについてどう思います?
J 矢沢さんは、基本的には相容れないタイプの人間。似た者同士のように見えて、人生の方向性が水と油のようだった。僕が矢沢さんを表現するなら、「世紀の自信家」であり、「自己愛に満ちた人」であり、「現実主義者」であり、「新興宗教『ヤザワ』の教祖」と言ったところかな。俗世間の中での生き方がとてもうまくて、成功者となるために、あくなきまでに自己愛を注入することによって、正論でなくても、あたかもそうであるがごとくにしてしまう。そんな強い上昇志向と意志力を持った、僕には決してまねできない人でした。ただ、キャロルという大きな戦車に乗るクルーであったことは確か。
大倉家のためにキャロル年金がほしい
T キャロルは青春だった。ジョニーはまだ今年57歳。私たち団塊の世代よりも少し下なんだけど、私はキャロルを見てカタルシスを覚えてた。やりたい放題のキャロルは、弟分みたいな感じ。たった3年で爆発的に売れたということもかっこよかった。あの頃の全学連のやつらは、今もこっそり聴いてるはず。キャロルの再結成はある?
J 今回、怪情報が流れたときに、ビジネス的にもキャロル再結成を望む音楽関係者から連絡が来ました。彼からしたら、俺が死んだら商売にならないから心配だったというのもあったのかもね。矢沢さんには、再結成に関しては、成功者としてのいろいろな思いがあると思うけど、キャロルの権利関係について動いている有象無象がいるから、そのあたりがはっきりしないと無理じゃないですか。
T キャロルのメンバー4人がそろわないと、できない音楽があると思う?
J 4人じゃないとできない、不可思議なサウンドはありますね。超一流の人とやっても表現できない。矢沢さんはベースマンとしてはピカイチとはいえないけど、めちゃくちゃなように見えて、誰もまねできないキャロルのすばらしきベースでした。
T その音楽を、商売の話は抜きにして、もう一回体験したい?
J いや、いいです。矢沢さんは今は「大衆音楽をやる」と決めたみたいですし。キャロルのファンは今でも革ジャン着て、僕のライブを見にきますよ。今、日本の若者は黒人音楽に占領されてるけど、もう一度、僕らの音楽"キャロリズム"をわからしめて、後世に伝えたいという気持ちはあります。あとは大倉家のために"キャロル年金"がいただきたい。
T キャロル年金とは、いい言葉だ。家族のためにキャロルとしてもう一稼ぎしたいというのは、純粋な想いだ。
J 僕たちは、70年代を代表する日本の「ロックンロール」というカルチャーをつくったんです。自分が「偉い」と言いたいんじゃない。ただ、キャロル号という戦車が70年代を巻き込んでいったのは事実。それを日本人はリスペクトしない。テレビはくだらないことばっかりやってるでしょ。誰かと誰かがくっついたとか、離れたとか。どうして日本はこんなだらしがないんだ。
T 最近だと、石田純一がまた騒がせたね。彼はジョニーと同世代だけど、いつもへらへら薄ら笑いを浮かべてるんだよ。ジョニーも私もああいう薄ら笑いはしない人生だもん。大笑いか、大泣きか、本気で怒るか。そういう人生。今日はどうもありがとう。
(「サイゾー」7月号より)
●じょにー・おおくら
1952年生まれ。71年にキャロルを結成しデビュー。ギター、ヴォーカル、作詞を主に担当し、「ファンキー・モンキー・ベイビー」などヒット曲を飛ばす。75年、キャロル解散。その後俳優に転身し活躍する一方、ソロアーティストとして、真のロックンロールを追求している。ちなみに、公式プロフィールでは、長い間、「1951年生まれ」となっていたが、帰化するに当たって韓国から戸籍を取り寄せたときに、52年生まれであったことが判明したという。「戦後10年ぐらいは、在日にはそんなことがよくあったんだよ」(ジョニー)。
2013.01.20
「矢沢永吉は、ひどいことを平気でする」週刊誌暴露のジョニー大倉にファン・業界の反応は……
昨年大みそかのNHK『紅白歌合戦』に出場し、伝説的ロックバンド・キャロルとしてデビューしてからの40周年を締めくくったロック歌手・矢沢永吉だが、長年にわたって矢沢と“冷戦状態”であることが知られているのが、キャロルの結成メンバーでミュージシャンのジョニー大倉だ。そんなジョニーが「週刊新潮」(新潮社)1月24日号で、矢沢との確執について語っている。
ジョニーは今月16日にキャロルの曲をセルフカバーしたアルバム『アイ・リメンバー・キャロル・バイ・ジョニー』を発売したが、インタビューによると、矢沢が作詞作曲したキャロルの名曲「涙のテディ・ボーイ」と「夏の終り」を収録しようとしたところ、矢沢の許可が出なかった。
そのためジョニーは「とにかく矢沢さんは“キャロルは俺のもの”という意識が強い」と指摘。昨年9月に矢沢が横浜・日産スタジアムで開催した40周年記念ライブで、元キャロルのリードギター内海利勝が、37年ぶりに矢沢との共演を果たしたことについては、「内海くんだけは呼んで(中略)僕には声もかけやしない。そういうひどいことを平気でする」と内幕を明かした。
ジョニーが俳優として評価され始めたころには、「ジョニー、ギャラいくらもらってんだ」と声をかけたそうで、その時の心境を「相変わらず金にうるせえオヤジなんだなって思ったね」。
10年前から矢沢の事務所がキャロルの肖像権や商標を管理することで合意しているにもかかわらず、「矢沢さんには美味しいところを全部持っていかれた悔しさがあるかな……」と“恨み節”をこぼしたが、実際ジョニーに対しては音楽業界からも冷ややかな目線が向けられているという。
「キャロルの解散、長年の確執の原因は、矢沢がキャロルの実権を握ったのをジョニーが恨んでいるからだが、バンドの中期にジョニーがドラッグ依存で失踪、生活に破綻を来すなど、バンドに多大なる迷惑をかけた。
それでも、矢沢はジョニーの音楽性を高く評価していたが、最後はジョニーが不満を爆発させて活動わずか3年で解散。ジョニーはしばらくおとなしくしていたが、矢沢にキャロルの権利関係を押さえられて納得いかなかったようで、03年に『キャロルは矢沢だけのものじゃない。(メンバーの)3人(ジョニー、内海、ユウ岡崎)は矢沢のバックバンドじゃない』と発言して反撃ののろしを上げると、以後2冊の“暴露本”やメディアで矢沢バッシングを繰り返してきた。矢沢はまったくジョニーの挑発に乗ることがなかった」(音楽関係者)
そして、そんなジョニーを矢沢以上に嫌うのが、キャロルのファンや矢沢の側近、特に売れない時代から矢沢を支えた矢沢の妻だというのだ。
「おそらく、矢沢の40周年コンサートにジョニーが出てきても、これまでの経緯から大ブーイングを浴びることになっただろう。ファンの間でも知られるエピソードとして、キャロル時代から矢沢の妻は、内海から自宅に電話があればゴキゲンで矢沢に取り次いだが、ジョニーからの電話は『いい話じゃないな』と直感して、居留守などを使って取り次がなかったという。
とにかく、矢沢の妻が嫌ったのがジョニーの“二枚舌”。別の関係者には平気で矢沢の悪口を言うくせに、矢沢の前では急にいい顔をしたりすることがキャロル時代からあった。
最近のメディアのインタビューを見てみても、今回の『新潮』では堂々と矢沢批判を展開しているくせに、先に発売されたスポーツ紙では、デビュー40年間で最も印象的だったことを聞かれて『宿命的に矢沢永吉と出会ったこと』と即答。矢沢のライブについても『矢沢さんの40周年を祝い、何万人ものファンがきた。彼の力。
そこで内海君が3曲ほどやったそうですね。うれしいことです』と歯の浮くようなコメントをしている。一体、どちらが本当のジョニーなのか?」(同)
ジョニーと矢沢との“雪解け”は永遠になさそうだ。
ジョニー大倉(本名:朴 雲煥(박운환 / パク・ウナン)日本名:大倉 洋一・1975年にキャロルによる共著『暴力青春』で在日朝鮮人二世であることをカミングアウト)
矢沢永吉(趙永吉、巴山永吉、巴山英吉・広島県広島市出身。血液型はB型。身長180cm。CAROLのメンバー(ジョニー大倉)は在日韓国人。1978年6月8日「日本国籍に帰化」)
by cress30 | 2005-04-10 09:39 | ◆CAROL(キャロル)